今日は、しのの今までの人生の半分を生活の拠点にしていた会社とのお別れの日である。
会社生活の最後の日は、忙しい。始業のチャイムと同時に職場の同僚にお別れの挨拶をしなけれならない。昨夜考えてことを話そうとしたが、部長が、しのの会社生活の経歴を皆さんに紹介している内容を聞いているうちに目頭が熱くなってきた。長いサラリーマン生活の思い出が、スライドショウとしてしのの脳裏を横切った。そこをぐっと堪えて簡単な挨拶をした。これで上司命令の仕事はすべて終えた。
「会社のためになってきたかどうか定かでないが、どうにか今日になりました。二人目の女性課長としてとにかくいろいろなことを経験してきました。今後は、会社で得た財産を糧として、元気で21世紀を羽ばたきたいと思います。」と挨拶するつもりでしたが、何を言ったかは覚えていない。 工場内の多くの先輩や後輩に挨拶周りは、昨日の内に済ましておいたが、昨日会えなっかた数人の上司への挨拶が残っていたので、満開の桜に飾られた広い構内を歩きながら「ああ、来年はこの桜をみることが出来ないのだ」と、思うと見慣れたビル群が新鮮に見えた。入社した時に隣の机にいた同僚が
「これからどうするの」と尋ねた。
「退職金を食いつぶしながら、右手に碁石、左手にゴルフクラブの日々を夢みています」
と、淡々としている自分に驚いていた。
本社で卒業式が行われる予定になっていた。しのは、本社の同僚への挨拶のために十分余裕を持って電車に乗った。すると偶然にも向かいの座席にしのの全盛期に一緒に仕事をした先輩がいた。
「どこへ行くの」
「本社へ、退社することにしたので、今日は、わたしの卒業式なの」
「まだ定年前だろ」
「でも、会社にくるのが疲れたの」
「社長との昼食会か」
「ビールが出るんですって」
「うん、おれのときは、幕の内弁当とビールで歓談しただけだった」
「社長の顔などほとんどまともに見ることがなっかたから、最後に記念として参加することにしたの」
本社の会議室に行くと数人の同窓生がいた。知っている人は誰もいない。しばらくして人事担当の取締役の式次第の説明があり、式が始まった。しのは、初めて社長室に入ったので、緊張感もあったが、ものめずらしさできょろきょろした。
「篠原富美子さん」
「はい」
「あなたは永年・・・」と、社長は感謝状を読み上げて、しのに感謝状と退職金の明細書を手渡された。しのはうやうやしくそれを受け取った。ずーと昔、学校卒業式で経験したのと同じであっが、”蛍の光と仰げは尊し”の曲が流れてていない社会人卒業式である。
社長との昼食会は、無事終了したが、たった一杯の昼のビールは、車窓の桜をより美しく見えさせた。
しのは、再び工場に戻り、長年使っていた机とパソコンを念入りに拭いた。
「長い間、ありがとう。これからの主人によろしくね」 夕刻からは、しのの同僚がお別れ会をしてくれた。お別れ会で頂いた花束を手にしながら、数人と吉祥寺のジャズライブで聞いたベースの響きを胸に抱きながら今日の1日は終わった。
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